Toru Takemitsu / 武満徹 (1930 – 1996)  【作曲家】

Toru Takemitsu / 武満徹 (1930 – 1996)  【作曲家】

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Toru Takemitsu /  武満徹 (1930 – 1996)  【作曲家】

 

武満徹:現代音楽の巨匠

 

 

武満徹1930-1996)は、日本を代表する現代音楽の巨匠。

彼の音楽は、伝統的な日本の音楽と西洋音楽の融合によって独自の世界を創造し、国際的な評価を受けています。

1950年代から彼の才能は映画音楽にも注がれ、多くの映画でその才能を発揮しました。

彼は、映画音楽や伴奏を手掛けることで、映像と音楽の融合における新たな可能性を探求、

1980年代には、彼の映画音楽は多くの人々に愛され、映画好きとしても知られるようになる。

さらに、彼はエッセイや対談集などの著作を通じて、自身の思想を広く共有し

これらの著作は、彼の音楽だけでなく、彼の深い思索と哲学を理解するための重要な資料となっている。

武満徹の音楽と思想は、現代音楽の発展において重要な役割を果たし、今日に至るまで多くの音楽家や聴衆に影響を与え続け、

私たちが音楽を通じて感じる豊かな感情と、文化の架け橋としての役割を果たしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

ギター作品

 

 

 映画とテレビ・ドラマのための音楽 (Film Scores):

 

    • ギター独奏または二重奏のための音楽、映画やテレビドラマのために書かれた美しいメロディが含まれる。

 

エキノクス (Equinox) (1993):

    • ギターのための作品、繊細で抒情的な音楽。

 

 ギターのための12の歌 (12 Songs for Guitar) (1977):

    • ギターのための編曲集、12つの美しい歌が含まれる。

 

 ギターのための小品 (A Piece for Guitar) (1991):

    • ギター独奏のための短い作品、武満徹の音楽の特徴である繊細さと独創性が感じられる。

 

 素晴らしい悪女 (A Marvelous Kid) (1963):

    • 3台のギターのために書かれた作品、リズミカルでエネルギッシュな音楽。

 

 すべては薄明のなかで (All in Twilight) (1987):

    • ギターのための4つの小品、幻想的で神秘的な雰囲気が漂う。

 

 不良少年 (Bad Boy) (1961):

    • 2台または3台のギターのために書かれた作品、リズミカルで遊び心のある音楽。

 

 ヒロシマという名の少年 (A Boy Named Hiroshima) (1987):

    • 2台のギターのために書かれた作品、武満徹の平和への思いが込められている。

 

 森のなかで (In the Woods) (1995):

    • ギターのための3つの小品で、自然の美しさを表現した音楽です。

 

 ラスト・ワルツ (The Last Waltz) (1983):

    • ギターのための作品、美しいメロディと繊細な音楽。

 

 

 

 

生涯と業績

 

 

 

 

 

 

1930108、東京市本郷区駒込曙町で生まれる。

生後1ヶ月で父の勤務地である満洲の大連に渡り、小学校に上がるまでの6年間を過ごす。

 

1937、小学校入学のために単身帰国。

戦争末期には軍国少年として育ち、音楽との出会いは戦時中に聞いたシャンソン「聴かせてよ、愛のことばを」。

 

1943、中学校に入学。

戦争中の教育を受け、予科練の試験に不合格となる。

終戦後、ラジオ放送で音楽を楽しみ、ジャズに親しむ機会を得る。

 

1948、清瀬保二に作曲を師事するが、実際にはほとんど独学で音楽を学ぶ。

この年、新作曲派協会の作品発表会で清瀬保二の作品に感銘を受ける。

 

1950、ピアノ曲「2つのレント」で作曲家デビュー。しかし、この作品は酷評される。

 

1951、詩人の瀧口修造の下で「実験工房」結成メンバーに加わり、前衛的手法に没頭する。

 

1954、森永チョコレートのコマーシャルを手がけ、若山浅香さんと結婚。

 

1957、「弦楽のためのレクイエム」を発表。この作品はストラヴィンスキーに絶賛され、武満の名を世界に知らしめる。

 

1961、オーケストラのための「リング」初演で小澤征爾と親交を結ぶ。

 

1964、「テクスチュアズ」でユネスコ国際作曲家会議グランプリを受賞。

 

1967、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の創立125周年記念作品として「ノヴェンバー・ステップス」を発表。この作品で作曲家としての名声を確立。

 

1970、万博での音楽監督を務め、翌1971年、札幌オリンピックのオーケストラ曲「冬」を発表。

 

1975、エール大学客員教授として活動。

 

1995、膀胱と首のリンパ腺にがんが見つかり、長期の入院生活を送る。

 

1996220、膀胱ガンのため逝去。享年65歳。晩年にはオペラの創作にも取り組んでいたが、唯一のオペラは完成を見なかった。

 

 

 

武満徹の音楽は、その革新的な試みと美しい調和で、世界中から賞賛されました。彼の作品は、日本の伝統音楽と西洋音楽の架け橋となり、現代音楽の新たな地平を開いたのです。彼の音楽は今もなお、多くの人々に愛され続けています。

 

 

 

 

音楽家への決意

 

武満徹は、1948年に清瀬保二に作曲を師事しましたが、実際にはほとんど指導を受けず独学で作曲を学ぶ。

高校卒業後、東京音楽学校の作曲科を受験、音楽には学問が関係ないと考え、試験の2日目を受けることなく去る。

終戦後、横浜のアメリカ軍キャンプで働きながら、ジャズに親しみ、音楽家としての道を歩む決意を固める。

音楽との出会いは、学徒動員中に手回し蓄音機から流れるリュシエンヌ・ボワイエの「聴かせてよ、愛のことばを」を聴いてから、これが作曲家になるきっかけとなる。

1950年、武満は処女作であるピアノ曲『2つのレント』を発表、当時の音楽評論界の重鎮、山根銀二によって「音楽以前である」と酷評る。

1951年に詩人の瀧口修造のもとで『実験工房』の結成メンバーとなり、前衛的な手法を探求。

1957年に結核の病床で書いた『弦楽のためのレクイエム』が、来日したストラヴィンスキーに絶賛され、武満徹の名を世界に知らしめることとなる。

武満徹は伝統的な音楽教育を受けながらも、独自の音楽世界を築き上げ、日本のみならず世界の音楽シーンに大きな影響を与えた作曲家。

 

 

 

 

 

映画音楽

 

 

 

 

 

 

 

武満徹は、映画音楽の分野でもその才能を発揮し、1955年から1996年までに100本以上の映画音楽を作曲。

彼の音楽は、単なる背景音楽を超え、映画の重要な一部となり、時には歌謡曲として流行するほどの影響力を持っていた。

 

 

特徴:

 

  • 感性の鋭さ: 武満徹は音の一つ一つを敏感に感じ取り、その効果を深く理解していました。彼のこの感覚は、他の多くの映画監督や作曲家にはないものでした。
  • コラボレーション: 彼の映画音楽は、必ずしも一人で作曲されたわけではなく、ロックのマジカル・パワー・マコ、電子音楽の秋山邦晴、ピアノ作品の一柳慧や高橋悠治など、多くのアーティストがクレジットされている。
  • 革新的な音の付け方: 篠田正浩監督の「心中天網島」では、バリ・ガムランやトルコの祭り笛と太鼓の音を使用し、誰も思いつかないような見事な音の付け方をした。

 

 

 

影響力:

  • ザ・クラッシュのジョー・ストラマーは、アレックス・コックス監督に映画音楽を依頼された際、武満徹の音楽の付け方を研究し、それを自分の音楽に取り入れている。

 

 

 

代表作:
  • 『狂った果実』(1956年)
  • 『切腹』(1962年)
  • 『古都』(1963年)
  • 『太平洋ひとりぼっち』(1963年)
  • 『白と黒』(1963年)
  • 『砂の女』(1964年)
  • 『伊豆の踊子』(1967年)
  • 『どですかでん』(1970年)
  • 『燃える秋』(1978年)
  • 『天平の甍』(1980年)
  • 『乱』(1985年)
  • 『黒い雨』(1989年)
  • 『利休』(1989年)
  • 『写楽』(1995年)

 

 

武満徹の映画音楽は、彼の独特な感性と革新的なアプローチにより、映画の世界に新たな次元をもたらしました。

 

 

 

 

テレビ音楽

 

 

 

 

 

 

 

 

 

武満徹は、映画音楽での功績がよく知られているが、その才能はテレビ音楽にも及んでいます。

NHKの大河ドラマをはじめとする多くのテレビ番組で、彼の作曲したテーマ曲や伴奏音楽が使われてきました。

40本以上の作品に彼の音楽が寄与、その中でも特に記憶に残る作品

 

  • 『源義経』 (NHK, 1966): 歴史ドラマの金字塔とも言えるこの作品で、武満徹は時代の息吹を感じさせる音楽を提供。
  • 『天皇の世紀』 (朝日放送, 1971): 日本の近代史を描いたこのシリーズでは、武満の音楽がドラマの重厚な雰囲気を高める。
  • 『未来への遺産』 (NHK, 1974): 未来へのメッセージを込めたこの番組において、武満の音楽は希望と展望を感じさせる。
  • 『赤穂浪士』 (テレビ朝日, 1979): 忠義と勇気の物語に、武満の音楽はさらなる深みを加えている。
  • 『夢千代日記』 (NHK, 1981): 日本の家庭を描いたこのシリーズにおいて、武満の音楽は温かみと懐かしさを提供。
  • 『続・夢千代日記』 (NHK, 1982) / 『新・夢千代日記』 (NHK, 1984): 続編においても、武満の音楽は物語の心地よい背景となっている。
  • NHK市民大学』 (NHK, 1982): 教育番組における彼の音楽は、視聴者に知識への興味を喚起させるものだった。
  • 21世紀は警告する』 (NHK, 1984-5): このドキュメンタリーシリーズでは、武満の音楽が現代社会への警鐘を鳴らす。
  • 『山頭火、何でこんなに淋しい風ふく』 (NHK, 1989): 詩人の心象風景を描いたこの作品では、武満の音楽が詩的な世界観を深めている。
  • 『幻 源氏物語絵巻』 (NHK, 1993): 古典文学の名作を題材にしたこの番組では、武満の音楽が古の世界へと誘う。

 

 

武満徹の音楽は、ただ耳に心地よいだけでなく、視聴者の心に深く響き、映像と一体となって物語を語ります。

彼の作品は、日本のテレビ音楽史において、消えることのない足跡を残しています。

 

 

 

 

武満徹のデビューと前衛作曲家への道

 

 

 ピアノ曲「2つのレント」の発表

1950年、武満徹は作曲の師である清瀬保二らが主催した「新作曲派協会」第7回作品発表会で、ピアノ曲「2つのレント」を発表し、作曲家としてデビューしました。

しかし、当時の音楽評論家山根銀二によって「音楽以前である」と新聞紙上で酷評される。

武満はこの評価に傷つき、映画館の暗闇で泣いたと言われています。

 

 

 「妖精の距離」への挑戦

この頃、詩人の瀧口修造と知り合った武満は、次作となるヴァイオリンとピアノのための作品「妖精の距離」(1951年)のタイトルを彼の同名の詩から取りました。

 

 

 芸術集団「実験工房」への参加

同年、瀧口の下で多方面の芸術家が参集して結成された芸術集団「実験工房」の結成メンバーとして、武満は作曲家の湯浅譲二らとともに参加。

彼はバレエ「生きる悦び」で音楽(鈴木博義と共作)と指揮を担当し、ピアノ曲「遮られない休息I」(1952年)などの作品を発表。

 

 

 幅広いジャンルでの創作活動

「実験工房」に参加したことから、武満は映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルで創作活動を開始する。

 

 

 「弦楽のためのレクイエム」の評価

1957年、武満は早坂文雄(1955年没)に献呈された「弦楽のためのレクイエム」を発表。

日本の作曲家はこの作品を黙殺、しかし1959年に来日していたストラヴィンスキーが偶然NHKで聴いて絶賛し、後の世界的評価の契機となる。

 

 

 

 

武満徹:世界的作曲家への道

 

 正式デビューと評価

武満徹は、正式デビュー曲「2つのレント」で酷評され、作曲家として食べていけるようになるまでには数年の時間が必要でした。

 

  1ステップ:『弦楽のためのレクイエム』

1957年、「弦楽のためのレクイエム」を発表。

この作品は、1959年に来日した作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーが偶然NHKで聴いて絶賛したものでした。

 

 名作『ノヴェンバー・ステップス』

1958年に行われた「20世紀音楽研究所」主催の作曲コンクールで、8つの弦楽器のための「ソン・カリグラフィI」(1958年)が入賞。

この頃、指揮者の小澤征爾と知り合い、以降、生涯に渡り親友となる。

1960年以降、映画音楽のオファーが増え、日本映画の代表作に彼の音楽が使われるようになる。

 

 アメリカでの成功

小澤征爾の紹介をきっかけに、アメリカの名門オーケストラ、ニューヨーク・フィルハーモニックから125周年記念作を委嘱される。

その委嘱テーマは、邦楽器とオーケストラの組み合わせでした。

こうして、名作「ノヴェンバー・ステップス」が誕生する。

 

 

1967119日、ニューヨークの文化の中心リンカーン・センターに位置するエイブリー・フィッシャー・ホールで行われた初演は今や伝説的。

小澤征爾と共にステージに登場した2人のソリストは、奇妙な楽器を手にした羽織袴姿の東洋人でした。

初めは興味本位で見ていた聴衆の態度は音楽が進むにつれて一変し、終演後には演奏者と聴衆が一体となって会場全体が祝福に包まれました。

日本に「Toru Takemitsu」という才能溢れる作曲家が出現したというニュースはあっという間に世界に配信されることになる。

 

 

  • 前期の傑作: 武満は「地平線のドーリア」や「テクスチュア」といった前期の傑作を生み出しました。これらの作品は、彼の独創的な音楽性と美しさを示す。
  • 映画音楽の名曲: 映画音楽においても、武満は数々の名曲を残しました。小林正樹監督の「怪談」やNHK大河ドラマ「源義経」において、邦楽器(琵琶と尺八)を使った音楽を提供し、その後の名作「蝕(エクリプス)」へとつながりる。
  • 「ノヴェンバー・ステップス」: アメリカの名門オーケストラ、ニューヨーク・フィルハーモニックから125周年記念作を委嘱された武満は、琵琶と尺八の名手による演奏を念頭に置いて「ノヴェンバー・ステップス」を作曲。1967年の初演は伝説的であり、聴衆は奇妙な楽器を手にした東洋人のソリストたちに感動し、祝福の声を送りました。
  • 世界的評価: 「弦楽のためのレクイエム」を聴いたストラヴィンスキーのコメントが世間に伝わり、「武満の音楽をストラヴィンスキーが激賞した」と評価が一転。以降、彼は作曲家としての階段を急速に上っていく。

 

 

 

 

前衛から伝統への回帰

 

 

 

 

 

 

 

 

彼の音楽は時間とともに大きな変化を遂げる。

 

前衛作曲家からの転向

1960年代後半、武満の音楽は変化を見せ始める。

実験的で前衛的なスタイルは徐々に影を潜め、調性に基づいた従来の音楽へと回帰。

この時期、音楽界全体も前衛音楽の終焉を迎え、より調性が明確な音楽へと移行していた。

 

 

『遠い呼び声の彼方へ!』と尾高賞

1980年、民音の依頼により作曲された『遠い呼び声の彼方へ!』は、第29回尾高賞を受賞するなど、大きな成功を収めました。

この作品は、前衛音楽の要素を排し、一般的なクラシック音楽の形式を取り入れている。

 

 

時代の変化と世界の反応

時代の変化と共に、世界各国からの反応も変わり始めました。

かつての実験的な武満徹の音楽を求める声がありながらも、新しい方向性に対する批判も存在しました。

彼の音楽的変遷は、一部からは酷評されることもあった。

 

 

 

晩年

 

  • 1980年代の転換: 1980年に作曲された「遠い呼び声の彼方へ!」は、前衛的な音響から和声的な響きへの転換を示す作品だった。この時期にショット社へ移籍し、作品の演奏の機会が増える。武満は日本の若手作曲家を支援し、国際作曲賞を授与することで彼らを育てました。
  • 調性音楽とオーケストラ曲: 1980年代は前衛音楽が流行しなくなり、武満も海外の潮流を紹介しつつ、調性的な作品を作曲。オーケストラ曲の委嘱に応え、全編が調性音楽である「系図若い人たちのための音楽詩」も作曲される。
  • ドイツでの評価: ショット社はドイツに拠点を置いていたが、ドイツの新聞で酷評されることもあった。
  • 未完のオペラ「マドルガーダ」: 晩年、武満は初のオペラ楽曲に取り組むが、作品は完成しなかった。「マドルガーダ」はバリー・ギフォードによる台本で、2005年に野平一郎によって作曲。
  • 最後の作品と病気: 武満は膀胱と首のリンパ腺にがんが見つかり、間質性肺炎を患っていました。晩年には「森のなかで」と「エア」を作曲。
  • 最期の音楽: 死の前日、武満はFMラジオから流れたバッハの「マタイ受難曲」を聴いて心身ともに癒されたと言い残しました。
  • 死去と墓所: 1996220日、虎の門病院で武満は亡くなり、東京都文京区小日向の曹洞宗日輪寺の境内墓地に埋葬される。
  • MIYOTA」のメロディ: 葬儀の際、黛敏郎が「MIYOTA」のメロディを歌いました。この曲はかつて武満が映画音楽のアシスタントとして書いたもので、谷川俊太郎が詞をつけて完成したもの。

 

 

晩年の武満は、音楽の新たな領域に挑戦し、多くの作品を残すが、その中でも「エア」は彼の遺作として記憶されている。

 

 

 

 

音楽的特徴

 

 

 個性の強さと分かりやすさ

指揮者の小澤征爾は、「作曲家はみんな個性が強いけど、武満さんはちょっと聴いただけでも『あ!これは武満さんの曲だな』と分かるぐらい個性が強い」と述べています。

武満の音楽は、その独自のスタイルと特徴的なサウンドで聴衆に強い印象を与える。

 

 

 緻密な楽譜とドラマチックな音楽

武満の楽譜は驚くほど緻密に書かれており、同時にドラマチックな要素を持っている。

彼はジャズやポップスで使われるテンションコードにこだわり、多くの作品で頻繁に用いています。

 

 

 演奏時間と聴衆への配慮

武満の作品は一部の例外を除いて、演奏時間が十数分といった長さであり、聴衆にも考慮がなされている。

彼の音楽が聴く側にとってもアクセスしやすいことを示している。

 

 

 甘美なメロディーと「歌」の存在

武満はジャズから影響を受けた甘美なメロディーを曲中にちりばめてる。

歌謡旋律的なメロディーはなくとも、彼の音楽には「歌」がありる。

これは彼の持つ「ポピュラリティ」であり、聴衆にとって分かりやすさをもたらしている要因と言える。

武満徹の音楽は、その独自性と魅力的な要素により、多くの人々に愛されています。

 

 

 

 

エピソード

 

 

 

 

 

 

 

 

 ピアノを贈られたエピソード:

 

    • 若い頃、武満は貧乏でピアノを買う余裕がありませんでした。しかし、ボール紙で紙ピアノを作り、指の練習をしていた。
    • 街を歩いているとピアノの音が聞こえると、その家に行ってピアノを弾かせてもらっていたそうです。
    • 武満は友人と一緒に歩いていたとき、「1軒もことわられなかったから、運が良かった。」と言っているが、友人によると何度も続けると必ず「もう来ないで下さい」と断られたそう。
    • 作家の芥川也寸志を通じて、まだ会ったことのない武満に黛敏郎が妻のピアノをプレゼントしました。武満は黛敏郎を訪ね、「結婚してピアノが2台になったから使ってください。」と言われたそう。

 

 

 

 熱心な阪神ファンだったエピソード:

 

    • 武満は阪神タイガースの大ファンでした。ある相手が「巨人」のファンだと答えると、「君のために曲は書けない。」と怒ったエピソードもあります。

 

 

 

 黒澤明監督とのエピソード:

 

    • 黒澤明監督と武満徹は作りたい音楽について喧嘩をしたことがあると言われています。

 

 

 

 「ノヴェンバー・ステップス」初演のエピソード:

 

    • 1967119日、ニューヨークのエイブリー・フィッシャー・ホールで「ノヴェンバー・ステップス」の初演が行われる。
    • 小澤征爾指揮のニューヨーク・フィルハーモニックと共にステージに登場したのは、琵琶の鶴田錦史と尺八の横山勝也という2人の日本人だった。
    • 聴衆は最初はどよめきましたが、曲が進むにつれて感動で包まれていったそうです。このエピソードはその後も語り継がれている。

 

 

 娘の真樹さんによるエピソード:

 

    • 武満は阪神の大ファンであり、ビートルズも好きな普通の父親でした。
    • 娘の真樹さんが夢中になっていたプリンスも、やがて武満が聴くようになったそうです。
    • 真樹さんは父親から「音楽家や作曲家とは付き合うな。」と言われたそう。
    • そして「どうしても付き合うならクラシック以外の音楽家にしろ!」と言われたそうです。

 

 

 

 

武満徹の言葉

 

 

「作曲家にとって一番大事なことは“聴く”こと」

 

「今聴こえてない音をね、聴き出したい。音を組み合わせて音楽を作るっていうんじゃなくて、ふと何かある音を聴き出したいなっていう気持ちが強いです」

 

「いまだに器楽とかオーケストラとか室内楽とか、そういうものを書いているのは、やっぱり、想像もつかないような出会いをもしかしたら、生きた人間たちが演奏すれば、それはできるかもしれないと思うからなんです」

 

 

 

 

代表曲

 

 

ノヴェンバー・ステップス

 

 

「弦楽のためのレクイエム」

 

 

 

年譜

 

 

1930年代

  • 1930: 東京に生まれ、生後1ヶ月で父の勤務先である大連に渡る。
  • 1937: 単身帰国し、本郷の富士前小学校に入学。

 

 

1940年代

  • 1943: 京華中学校に入学。
  • 1948: 清瀬保二に師事し、作曲を学ぶ。

 

 

1950年代

  • 1950: ピアノのための《2つのレント》が初演される。
  • 1951: 総合的な芸術活動を目指すグループ「実験工房」を結成。
  • 1956: 映画『狂った果実』の音楽を担当し、映画音楽の作曲を始める。
  • 1957: 《弦楽のためのレクイエム》が初演され、ストラヴィンスキーに絶賛される。

 

 

1960年代

  • 1960: 《弦楽のためのレクイエム》がドイツ大使賞を受賞。
  • 1961: 《環リング》がドイツ大使賞を受賞。
  • 1965: 《テクスチュアズ》が国際現代作曲家会議最優秀作品賞を受賞。
  • 1966: アーロン・コープランドに「今日の大作曲家の一人」と絶賛される。
  • 1967: 《地平線のドーリア》でアメリカ西海岸音楽批評家賞を受賞。

 

 

1970年代

  • 1970: 万国博覧会の鉄鋼館「スペース・シアター」の音楽をプロデュース。
  • 1971: エッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』を出版。
  • 1975: エール大学からサンフォード賞を受ける。
  • 1976: 《カトレーン》が尾高賞を受賞。

 

 

1980年代

  • 1980: 日本芸術院賞を受賞。
  • 1981: 《遠い呼び声の彼方へ!》が尾高賞を受賞。
  • 1985: フランス政府から芸術文化勲章を受章。
  • 1986: サントリーホール開設記念国際作曲委嘱シリーズ監修者に就任。

 

 

1990年代

  • 1990: ストックホルム・ニュー・ミュージック・フェスティバルのテーマ作曲家になる。
  • 1991: シカゴ交響楽団創立100周年記念委嘱作品で毎日芸術賞を受賞。
  • 1994: 映画音楽作曲家としての活動に焦点をあてたドキュメンタリー映画が製作される。
  • 1996: 220日、癌のため東京で死去。享年65歳。

 

 

 

最後に

 

 

 

 

 

 

 

 

 

武満徹の音楽は、映画音楽から現代音楽、そして伝統的な日本音楽に至るまで、幅広いジャンルに影響を与えました。

今日でも多くの音楽家や聴衆に愛され続けています。

彼の遺した音楽は、これからも長く永遠に語り継がれることでしょう。

 

 

 

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In English

 

 

 

Toru Takemitsu / Toru Takemitsu (1930 – 1996) [Composer

 

Toru Takemitsu: Master of contemporary music

 

Toru Takemitsu (1930-1996) is one of Japan’s leading masters of contemporary music.

His music has received international acclaim for its unique fusion of traditional Japanese and Western music to create a world of its own.

From the 1950s onwards, his talents were also channeled into film music, which he demonstrated in a number of films.

He explored new possibilities in the fusion of film and music by working with film music and accompaniment,

In the 1980s, his film music was much loved and he became a well-known film buff.

He also shared his ideas widely through his writings, including essays and collections of dialogues,

These writings have become important sources for understanding not only his music, but also his deep thought and philosophy.

Toru Takemitsu’s music and ideas played an important role in the development of contemporary music and continue to influence many musicians and audiences to this day,

the rich emotions we feel through music and the cultural bridges it builds.

 

 

 

Toru Takemitsu Guitar Works

 

– Music for Film and Television Drama (Film Scores):.

    * Music for guitar solo or duet, including beautiful melodies written for film and television drama.

Equinox (Equinox) (1993).

    * Works for guitar, delicate and lyrical music.

– 12 Songs for Guitar (1977).

    * Arrangements for guitar, containing 12 beautiful songs.

– A Piece for Guitar (1991).

    * A short piece for solo guitar, with the delicacy and originality that characterise Toru Takemitsu’s music.

– A Marvellous Kid (1963).

    * A piece written for three guitars, rhythmic and energetic music.

– All in Twilight (1987).

    * Four pieces for guitar, with a fantastic and mysterious atmosphere.

– Bad Boy (1961):

    * Piece written for two or three guitars, rhythmic and playful music.

– A Boy Named Hiroshima (1987).

    * Written for two guitars, this piece expresses Toru Takemitsu’s thoughts on peace.

– In the Woods (1995).

    * Three pieces for guitar, music expressing the beauty of nature.

– The Last Waltz (1983).

    * A piece for guitar, beautiful melodies and delicate music.

 

 

Life and work of Toru Takemitsu

 

Born 8 October 1930 in Komagome Akebono-cho, Hongo, Tokyo.

At the age of one month, he travelled to Dalian, Manchuria, where his father was working, where he spent the first six years of his life before entering primary school.

In 1937, he returned alone to Japan to enter primary school.

Growing up as a military boy at the end of the war, his first encounter with music was a chanson he heard during the war, ‘Let me hear you, words of love’.

In 1943, he entered junior high school.

Educated during the war, he failed his preliminary examinations.

After the war, he enjoyed music on radio broadcasts and had the opportunity to become familiar with jazz.

In 1948, he studied composition with Yasushi Kiyose, but in practice he was largely self-taught in music.

In the same year, he was impressed by the works of Koji Kiyose at a presentation of works by the New Composition School Society.

In 1950, he made his debut as a composer with the piano piece ‘Two Lents’. However, this work was critically acclaimed.

In 1951, he joined the founding members of the ‘Experimental Studio’ under the poet Shuzo Takiguchi and immersed himself in avant-garde techniques.

In 1954, she worked on a commercial for Morinaga Chocolate and married Asaka Wakayama.

In 1957, he published Requiem for Strings. This work was acclaimed by Stravinsky and made Takemitsu famous throughout the world.

In 1961, he became friends with Seiji Ozawa at the première of Ring for orchestra.

In 1964, he was awarded the UNESCO International Congress of Composers Grand Prix for ‘Textures’.

In 1967, his work ‘November Steps’ was published to celebrate the 125th anniversary of the New York Philharmonic. This work established his reputation as a composer.

In 1970, he was musical director at the 1970 World Exposition, and the following year, 1971, he presented Winter, an orchestral piece for the Sapporo Olympics.

In 1975, he was a visiting professor at Yale University.

In 1995, he was found to have cancer of the bladder and lymph glands in his neck and spent a long time in hospital.

Died of bladder cancer on 20 February 1996. He was 65 years old. In his later years, he worked on the creation of operas, but his only opera was never completed.

Toru Takemitsu’s music was admired worldwide for its innovative experimentation and beautiful harmonies. His works bridged traditional Japanese and Western music and opened up new horizons for contemporary music. His music continues to be loved by many people to this day.

 

 

Determination to become a musician

 

Toru Takemitsu studied composition with Yasushi Kiyose in 1948, but in practice he received little instruction and taught himself to compose.

After graduating from high school, he applied to the composition department of the Tokyo Music School, but left without taking the second day of the examination, believing that academics had no place in music.

After the war, while working in an American military camp in Yokohama, he became familiar with jazz and determined to pursue a career as a musician.    

His first encounter with music was when he heard Lusienne Boyer’s ‘Let Me Hear, Love’s Words’ playing from a hand-cranked gramophone during the mobilisation of schoolchildren, which inspired him to become a composer.

In 1950, Takemitsu published his first work, the piano piece Two Lents, which was harshly criticised by the leading music critic of the time, Yamane Ginji, who described it as “pre-music”.

In 1951, he became a founding member of the Experimental Studio under the poet Shuzo Takiguchi and explored avant-garde techniques.

In 1957, his Requiem for Strings, written on a bedside of tuberculosis, was acclaimed by Stravinsky on his visit to Japan, and made Takemitsu Toru’s name known throughout the world.

Despite his traditional musical education, Toru Takemitsu has developed his own unique musical world and has had a major impact on the music scene in Japan and around the world.

 

 

 

Film music by Toru Takemitsu

 

Toru Takemitsu also demonstrated his talent in the field of film music, composing more than 100 film scores between 1955 and 1996.  

His music was so influential that it went beyond mere background music and became an important part of the film, sometimes even becoming popular as a song.

Characteristics:.

* Acuteness of feeling: Toru Takemitsu was sensitive to each sound and had a deep understanding of its effects. This sense of his was something that many other film directors and composers did not have.

* Collaboration: his film music was not necessarily composed by one person, but many artists are credited, including Magical Power Mako for rock, Kuniharu Akiyama for electronic music, Toshi Ichiyanagi and Yuji Takahashi for piano works.

* Innovative soundtrack: Masahiro Shinoda’s Shinju Tenmijima used Balinese gamelan and Turkish festival flute and drum sounds in a brilliant way that no one had thought of before.

Influences:.

* Joe Strummer of The Clash, when asked by director Alex Cox to compose music for a film, studied Toru Takemitsu’s method of adding music and incorporated it into his own music.

 

 

 

Notable works:.

 

* “Crazy Fruit” (1956).

* Seppuku (1962).

* The Ancient City (1963).

* “Pacific Alone” (1963).

* “Black and White” (1963).

The Woman in the Dunes (1964) * The Woman in the Dunes (1964) * The Woman in the Dunes (1964)

* “Izu no Odoriko” (1967)

* “Doka Den” (1970).

* Burning Autumn (1978).

* Tenpyo no Iraka (1980).

* Ran (1985).

* Black Rain (1989).

* Rikyu (1989).

* “Sharaku” (1995)

Toru Takemitsu’s film music has brought a new dimension to the world of cinema with his unique sensibility and innovative approach.

 

 

 

Toru Takemitsu and television music

 

While Toru Takemitsu is best known for his achievements in film music, his talent also extends to television music.

Many television programmes, including NHK’s historical drama series, have used theme and accompaniment music composed by him.

His music contributed to more than 40 films, the most memorable of which are.

* Minamoto no Yoshitsune (NHK, 1966): Toru Takemitsu provided the music that brought the era to life in this milestone historical drama.

* The Emperor’s Century (Asahi Broadcasting Corporation, 1971): Takemitsu’s music enhances the drama’s profound atmosphere in this series about modern Japanese history.

* Legacy for the Future (NHK, 1974): Takemitsu’s music evokes a sense of hope and perspective in this programme with a message for the future.

* Ako Ronin (TV Asahi, 1979): Takemitsu’s music adds depth to this story of loyalty and courage.

* Yumechiyo Nikki (NHK, 1981): Takemitsu’s music provides warmth and nostalgia in this series about a Japanese family.

* Sequel Yumechiyo Nikki (NHK, 1982) / New Yumechiyo Nikki (NHK, 1984): Takemitsu’s music provides a pleasant backdrop to the stories in these sequels.

* NHK Citizen’s College (NHK, 1982): his music in this educational programme aroused viewers’ interest in knowledge.

* 21st Century Alert (NHK, 1984-5): In this documentary series, Takemitsu’s music sounds a warning to contemporary society.

* Yamatohka, naze koroshii fufu (NHK, 1989): Takemitsu’s music deepens the poetic worldview in this depiction of the poet’s emotional landscape.

* The Tale of Genji Picture Scroll (NHK, 1993): Takemitsu’s music transports us to an ancient world in this programme based on a masterpiece of classical literature.

Toru Takemitsu’s music is not only pleasing to the ear, but also deeply resonates with the viewer, telling the story in unison with the images.

His works have left an indelible mark on the history of Japanese television music.

Toru Takemitsu’s debut and his path to becoming an avant-garde composer

– Presentation of the piano piece “Two Lents”

In 1950, Toru Takemitsu made his debut as a composer with the presentation of his piano piece ‘Two Lentos’ at the seventh presentation of the ‘New Composition Society’ organised by his composition teacher, Yasushi Kiyose, and others.

However, it was harshly criticised in the newspapers by the music critic of the time, Yamane Ginji, who described it as ‘pre-music’.

Takemitsu was so hurt by this assessment that he is said to have cried in the darkness of a cinema.

– The challenge of “The Distance of the Fairy”

Around this time Takemitsu became acquainted with the poet Shuzo Takiguchi, and took the title of his next work for violin and piano, Fairy Distance (1951), from his poem of the same name.

– Participation in the art group Experimental Studio

In the same year, Takemitsu joined composer Joji Yuasa and others as a founding member of the artistic group ‘Experimental Studio’, which was formed by artists from various fields under Takiguchi.

He was in charge of music (co-written with Hiroyoshi Suzuki) and conducting in the ballet The Ecstasy of Living, and published works such as the piano piece Uninterrupted Rest I (1952).

– Creative work in a wide range of genres.

Following his participation in the ‘Experimental Studio’, Takemitsu began his creative activities in a wide range of genres, including film, theatre, radio and television.

– Recognition of Requiem for Strings.

In 1957 Takemitsu published Requiem for Strings, dedicated to Fumio Hayasaka (d. 1955).

Japanese composers silenced the work, but Stravinsky, who was visiting Japan in 1959, happened to hear it on NHK and praised it highly, leading to its later international recognition.

 

 

Toru Takemitsu: the path to becoming a world-famous composer

 

– Formal debut and acclaim

Toru Takemitsu was severely criticised for his formal debut, Two Lents, and it took several years before he was able to eat as a composer.

– First step: ‘Requiem for Strings’.

In 1957, he published Requiem for Strings.

The composer Igor Stravinsky, who visited Japan in 1959, happened to hear the work on NHK and praised it highly.

– The masterpiece ‘November Steps’.

Son Calligraphy I (1958) for eight string instruments won a prize in a composition competition organised by the ‘Institute for 20th Century Music’ in 1958.

Around this time, he became acquainted with the conductor Seiji Ozawa, who has since become a close friend throughout his life.

From 1960 onwards, offers for film music increased and his music was used in some of the best-known Japanese films.

– Success in the USA

After being introduced by Seiji Ozawa, he was commissioned by the prestigious New York Philharmonic, a prestigious American orchestra, to write a work for its 125th anniversary.

The commission theme was the combination of Japanese instruments and orchestra.

Thus, the masterpiece ‘November Steps’ was born.

The premiere, which took place on 9 November 1967 at Avery Fisher Hall in Lincoln Center, the cultural heart of New York, is now legendary.

The two soloists who appeared on stage with Seiji Ozawa were orientalists dressed in haori hakama holding strange instruments.

The initially curious attitude of the audience changed as the music progressed, and by the end of the performance the performers and audience were united in a celebration of the entire venue.

The news that a talented composer called ‘Toru Takemitsu’ had emerged in Japan was quickly distributed around the world.

* Masterpieces of the earlier period: Takemitsu produced masterpieces of the earlier period, such as ‘Doria on the Horizon’ and ‘Texture’. These works demonstrate his original musicality and beauty.

* Film music masterpieces: in film music too, Takemitsu left behind numerous masterpieces. He provided music using Japanese instruments (biwa and shakuhachi) for Masaki Kobayashi’s Kwaidan and the NHK historical drama Minamoto no Yoshitsune, which led to his subsequent masterpiece Eclipse.

* The first performance in 1967 was legendary, and audiences were impressed by the oriental soloists with their strange instruments in their hands. The first performance in 1967 was legendary, and audiences were moved and congratulated the oriental soloists on their strange instruments.

* International acclaim: Stravinsky’s comments after hearing the Requiem for Strings were publicly received, and his reputation changed dramatically, with Stravinsky’s high praise for Takemitsu’s music. From then on, he rapidly climbed the ladder as a composer.

 

 

Return from avant-garde to tradition

His music underwent major changes over time.

  

Turning from avant-garde composer

In the late 1960s, Takemitsu’s music begins to change.

His experimental, avant-garde style gradually fades into the background and he returns to conventional music based on tonality.

During this period, the music world as a whole also saw the end of avant-garde music and a shift towards more tonally defined music.

The music of the period was also in the midst of the end of avant-garde music, with a move towards more tonal music. and the Otaka Prize

In 1980, “Beyond the Distant Call”, composed at the request of Min’ong, was awarded the 29th Otaka Prize. was a great success, winning the 29th Otaka Prize.

The work eschews elements of avant-garde music and embraces common classical music forms.

Changing times and global reactions

As times changed, the reactions from around the world also began to change.

While there were calls for the once experimental music of Toru Takemitsu, there was also criticism of the new direction.

His musical transitions were also heavily criticised by some.

 

 

Late years.

 

* 1980s transition: his 1980 composition Beyond the Distant Call! was a work that marked a shift from avant-garde acoustics to harmonic sound. It was during this period that Takemitsu moved to Schott, where his works were performed more frequently. Takemitsu supported young Japanese composers and nurtured them by awarding them international composition prizes.

* Tonal music and orchestral pieces: avant-garde music fell out of fashion in the 1980s and Takemitsu composed tonal works, introducing foreign trends. In response to a commission for an orchestral piece, he also composed Genealogy – a musical poem for young people – which is entirely tonal music.

* German acclaim: Schott was based in Germany and was sometimes heavily criticised in the German press.

* Unfinished opera ‘Madrugada’: in his later years Takemitsu worked on his first operatic composition, but the work was never completed. Madrugada was composed by Ichiro Nohira in 2005 to a libretto by Barry Gifford.

* Last works and illness: Takemitsu was found to have cancer of the bladder and lymph glands in his neck, and suffered from interstitial pneumonia. In his later years he composed ‘In the Woods’ and ‘Air’.

* Final music: the day before his death, Takemitsu claimed to have been healed in body and soul by listening to Bach’s ‘Matthew Passion’ on the FM radio.

* Death and gravesite: Takemitsu died on 20 February 1996 at Toranomon Hospital and is buried in the cemetery on the grounds of the Soto sect’s Nichirinji Temple in Kohinata, Bunkyo-ku, Tokyo.

* Melody of ‘MI, YO, TA’: Toshiro Mayuzumi sang the melody of ‘MI, YO, TA’ at his funeral. This song was once written by Takemitsu as an assistant for film music and completed with lyrics by Tanikawa Shuntaro.

In his later years, Takemitsu challenged himself in new areas of music and left many works, of which ‘Air’ is remembered as his last work.

 

 

Musical characteristics.

 

– Strength of character and clarity

Conductor Seiji Ozawa said: ‘All composers have strong personalities, but Takemitsu-san, even if you just listen to him for a moment, you can say, “Oh, this is Takemitsu-san’s music”! This is Takemitsu’s music’.

Takemitsu’s music leaves a strong impression on the audience with its unique style and distinctive sound.

– Exquisite scores and dramatic music

Takemitsu’s scores are incredibly precise and at the same time have dramatic elements.

He is particular about the tension chords used in jazz and pop music and uses them frequently in many of his works.

– Performance time and consideration for the audience

With a few exceptions, Takemitsu’s works have a performance length of a dozen minutes or so, and consideration is given to the audience.

This shows that his music is accessible to the listener.

– Sweet melodies and the presence of ‘songs’

Takemitsu’s music is peppered with sweet melodies influenced by jazz.

Even though there are no song melodies, there are ‘songs’ in his music.

This is his ‘popularity’ and a factor that makes his music easy to understand for his audience.

Toru Takemitsu’s music is loved by many people because of its uniqueness and attractive elements.

 

 

Toru Takemitsu episode

 

– Episode in which he was presented with a piano:.

    * When he was young, Takemitsu was poor and could not afford to buy a piano. However, he made a paper piano out of cardboard and practised his fingers.

    * Whenever he heard the sound of a piano while walking in town, he would go to the house and play the piano for them.

    * Takemitsu said that when he was walking with his friends, “I was lucky because not a single house turned me away.” But according to his friend, if he continued repeatedly, he was always refused, saying “Please don’t come back”.

    * Through the writer Akutagawa Yasunushi, Mayuzumi Toshiro presented his wife’s piano to Takemitsu, whom he had not yet met. Takemitsu visited Mayuzumi Toshiro and said, “Please use my two pianos now that we are married.” He was told.

– Episodes in which he was an ardent Hanshin fan:.

    * Takemitsu was a big fan of the Hanshin Tigers. When one of his opponents replied that he was a fan of the Giants, he angrily told him, “I can’t write a song for you.” When one of his opponents replied that he was a fan of the ‘Giants’, Takemitsu replied angrily: ‘I can’t write music for you.

– Episodes with director Akira Kurosawa:.

    * It is said that Akira Kurosawa and Toru Takemitsu once quarrelled about the music he wanted to make.

– Episode of the premiere of ‘November Steps’.

    * 9 November 1967, the premiere of ‘November Steps’ takes place at Avery Fisher Hall in New York.

    * Two Japanese, Nishiki Tsuruta on biwa and Katsuya Yokoyama on shakuhachi, appeared on stage with the New York Philharmonic conducted by Seiji Ozawa.

    * The audience initially groaned, but as the piece progressed, they were enveloped in emotion. This episode has since been passed on.

– Episodes by his daughter Maki:.

    * Takemitsu was an ordinary father who was a big Hanshin fan and also liked the Beatles.

    * Prince, which his daughter Maki was crazy about, was eventually listened to by Takemitsu.

    * Maki’s father told her, “Don’t associate with musicians and composers.” .

    * And he was told, “If you must associate with a musician, make it a non-classical musician!” He was also told, “If you must go out with someone, go for a non-classical musician!”

 

 

In the words of Toru Takemitsu

 

The most important thing for a composer is to listen.

I want to listen to the sounds that I don’t hear at the moment. I don’t want to make music by combining sounds, but I want to listen for sounds that are suddenly present.

The reason I still write instrumental, orchestral and chamber music is that I think it might be possible to create unimaginable encounters when performed by living people.

 

 

Chronology

 

1930s.

* 1930: Born in Tokyo, moves to Dalian, where his father works, at the age of one month.

* 1937: Returns to Japan alone and enters Fujimae Primary School in Hongo.

1940s.

* 1943: Enters Keika Junior High School.

* 1948: Studied composition under Yasushi Kiyose.

1950s.

* 1950: Two Lents for piano premiered.

* 1951: Forms the group Experimental Studio, which aims for a comprehensive artistic activity.

* 1956: Begins composing film music, with music for the film Crazy Fruit.

* 1957: Requiem for Strings premiered to Stravinsky’s acclaim.

1960s.

* 1960: ‘Requiem for Strings’ receives the German Ambassador’s Prize.

* 1961: ‘Ring Ring’ receives the German Ambassador’s Prize.

* 1965: “Textures” wins the Best Work Prize of the International Congress of Contemporary Composers.

* 1966: Praised by Aaron Copland as “one of the great composers of our day”.

* 1967: awarded the American West Coast Music Critics Award for Doria on the Horizon.

1970s.

* 1970: Produced the music for the Steel Pavilion ‘Space Theatre’ at the World’s Fair.

* 1971: published a collection of essays, ‘Sound, Silence and Measurably’.

* 1975: Received the Sanford Prize from Yale University.

* 1976: Awarded the Otaka Prize for Katrain.

1980s.

* 1980: Awarded the Japan Art Academy Prize.

* 1981: Beyond the Distant Calling! receives the Otaka Prize.

* 1985: Awarded the Ordre des Arts et des Lettres by the French Government.

* 1986: Appointed supervisor of the International Composition Commission Series in honour of the opening of Suntory Hall.

1990s.

* 1990: Theme composer for the Stockholm New Music Festival.

* 1991: Awarded the Mainichi Art Prize for a commissioned work for the centenary of the Chicago Symphony Orchestra.

* 1994: Documentary film focusing on his activities as a film music composer.

* 1996: Died of cancer in Tokyo on 20 February. He was 65 years old.

 

 

Finally.

 

Toru Takemitsu’s music has influenced a wide range of genres, from film music to contemporary music and traditional Japanese music.

It continues to be loved by many musicians and audiences today.

The music he left behind will be passed on for many years to come, forever.

Toru Takemitsu / 武満徹 (1930 – 1996)  【作曲家】
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